徳南晴一郎『怪談人間時計』

怪談人間時計 (QJマンガ選書)

怪談人間時計 (QJマンガ選書)

ホラー企画で取り上げようとしたものの企画が頓挫したのでここで紹介します。
 
この作品の断片的なキーワードとして、「マニアの間でカルト的人気」「狂ったデッサン」「悪夢のような世界」「時間の不連続性」「消えた天才マンガ家」といったものが挙げられる。
「マニアの間でカルト的人気」というのは出版された1962年当時の話ではなく、数年経ってからのものだが、キーワードの真ん中三つ、「狂ったデッサン」「悪夢のような世界」「時間の不連続性」を考えるとそう不思議なことでもない。要するに描く物が普通の姿をしておらず、現実に存在しないような物があちこちに存在し、精神世界的な描写が多く、間のコマがしょっちゅう省かれているかのような唐突な展開、といった特徴を持つ作品だということだ。これは特徴だけなら今でも多くのサブカル系漫画に見られるもので、個人的にはそこの部分だけを注目して持ち上げるのはどうかという気がする。
しかしそれでも私はこの作品に対する興味が尽きない。何故か。それは最後のキーワード「消えた天才マンガ家」という部分が関係している。
先述の通りこの作品の初出は1962年だが、当時人気があったわけではなく、その翌年1963年に、作者徳南晴一郎氏は8年の漫画家活動に終止符を打っている。その後はただのサラリーマンとして生活し、漫画界とは一切関与していない。この作品を再販することに関しても氏はかたくなに拒否し続け、最終的には「出版するなら勝手にしろ。ただし印税の受け取りはお断りする」といった主旨の手紙を送ってきたらしい(巻末の解説より)。
それほど氏にとってこの作品(あるいはそれまで描いてきた全ての作品)は忌むべき物で、封印したい過去ということなのだろうか。真意は定かではないが、少なくとも私はそこから漫画家、いや表現者の「描かずにはいられない、描くことで何かを吐き出し、それ故に描いた作品に自分というものが(無意識に)表れてしまう」という業や性を感じた。
人は過去の自分や裸の自分を恥じるものだ。だから氏にとって裸の自分を表した過去の作品は恥じるべき物なのかもしれないが、逆に読者の私にとってはだからこそ意味のある物なのだ。それは言い換えれば私が、表現物としての漫画よりはそれを表現した作者に興味がある、ということで、漫画読みとしてはどうかなーという気もするが、こういった読み方もアリではないかな、とも思っている。(あば)
 
 
  お母さんから時計の針が!
 併録「猫の喪服」より。悲鳴が聞こえるだけで在るはずのない物が出てきます。