よつばとにおける退廃性ノスタルジー的真実とその回答

han-cho2006-11-25

作品 よつばと
作者 あずまきよひこ
出版社 メディアワークス
掲載誌 月刊コミック電撃大王
連載期間 2002年3月〜
冊数 5冊


よつばととはノスタルジーである、という事実には異論はないと思われる。
だが、よつばとにノスタルジーという万人に共通作用するプラス因子が作為的に仕組まれていることに読者は意識的であろうか。
その因子が技法的に仕組まれている証拠となるのは、コマにおける視点であろう。コマとは読者の目となるカメラレンズであるが、そのレンズは常によつばを捉え、彼女の視点から撮影されることはほとんどない。
しかし、対照的に、よつば以外のキャラからの視点は多い。大人(=あさぎ・風香が特に多い)がよつばを見下ろす視点は、コマが移る際の時間経過を示す手法としても用いられる。
これらプラス因子は、読者たる我々が主人公であるよつばの視点と同化せず、脇役である大人の視点で、よつばとを楽しまざるを得ない限界点の実在を意味する(cf.ぼくのなつやすみ)。
その事実から、よつばととは、精神回帰性否定論を肯定された上で、精神回帰(無邪気な子供時代)を楽しむといった自己矛盾を孕んだ物語であることを看破する。
これらアンチテーゼとテーゼから、読者は、よつばの明るく楽しい日々が綴られた内容に涎を垂らしながらも、ある種の恐怖を感じることとなる。
その恐怖とは、この作品がいつ終わるのかという不安・強迫心理である。それは多くのよつばとファンの言論から窺い知ることができる。「よつばとって夏休みの終わりと一緒に完結するのか」、「いや夏休みが終わってからも続く」、「よつばとはとーちゃんの夢だった」などなど、多くのファンがその終わり方に興味を抱く。あずまきよひこの前作、あずまんが大王では学校生活という限られた時間でストーリーが進行したために、その完結に予測はできたが、よつばとでは、時間がゆったりと進む(=これも精神回帰の特徴である。子供の時間は非常にゆったりと流れるもの)ため、予測ができない。故に、読者はこの作品から汲み上げられる情報、それに対立する自己欲求との合致による高次元的自己解決の形成とその時期の判断に困難を極める。
そこで生ずる現象とは、よつばとを盲目的に歓迎し、よつばとにおける対立・矛盾する問題から目を背け、よつばとの表面的情報=退廃性ノスタルジーに全てを委ねる体制の出現である。
ところで、オタクが好む、若しくはオタクに好まれる商品には、多くがノスタルジー対効果を全面に押し出し、各々の主題を肯定あるいは、理解を深めるためのトリックが為されていることは周知だ。それはノスタルジーという効果が、新旧問わずオタク人口に膾炙している所以である。しかしながら、それらトリックに対する回答は、為されることがほとんどない。
故にオタク的商品の代表であり(あずまんが大王よりはオタク色を薄くしていることを承知の上でオタク的商品と述べる)、そのトリックをトリックとしてではなく主題として利用したよつばとによって、何らかの回答が作者によって示される、又は現在のオタク商品の中で満足し、そこで足踏みをする読者の間で言論が出現する可能性は高く、その意味であずまんが大王以上に今後のオタクにとっての通過儀礼的作品になることは間違いない。
これはまた、オタク商品における全てのジャンルを食い尽くしておきながら、既存ジャンルではなく、新ジャンル開拓によって、新たなオタク欲求充足の手段・需要を求めようとする人間にあっても、そのジレンマを克服する為のヒントになりうる。
個人的によつばとの終わりの時期を予測すると、表紙に描かれている影が怪しい。1巻から5巻へ進むにつれ次第に影の傾斜が急に、太陽が沈んでいるかのような気がしないでもない。
のですが。。