志村貴子「ぼくは、おんなのこ」

ぼくは、おんなのこ (Beam comix)

ぼくは、おんなのこ (Beam comix)

いやー、ほんとよりによってどうして志村貴子を選んだのだろう。もっとほかの作品にしておけばよかった。そんなことを考え続けてキーボードの前でかれこれ1時間何も書けない状態が続いていました。GSK内には志村ファンが多いというのも聞いたことがあるし・・・どんな反応になるのか・・・・

がー!想像するのでさえ恐ろしい。

もうそういう、もろもろの事情とかややこしいこととか一切合財無視していこうと思う。さよなら!体裁!

この作品は表題作「ぼくは、おんなのこ」を含む短編8作品で構成されている。いづれの作品も中学・高校生くらいの少年・少女が主人公で、彼らを取り巻く家族の人々、学校の友人とのかかわりを中心に話は展開していく。
何もこれに限ったことではないのだが、志村の作品は「ぼんやりしている」。それほど書き込まれていない背景も、やさしいけれど少ない線で書き込まれたキャラクターも、最小限のことしか話さないようになっているセリフ回しも、みんな「ぼんやりしている」。なんというかつかみどころがなく、明確なメッセージはないように感じられる。その特徴はこの作品にも際立っている。

表題作「ぼくは、おんなのこ」のストーリーはこう。1999年、地球上の全人類の性別が入れ替わってしまう。主人公のつかさちゃん(元男)はおじさん(元女)と話したり学校で行く中で、突然の変化に落ち込んだ気持ちに希望を見出していく、という話になっている。志村自身がのちに「(この作品は)お風呂の中で思いついた」と語っているように、フィクション性が強いお話となっている。ここで志村の「ぼんやりさ」がこの世界の「フィクション」を際立てせることになり、「思いつき」のぼんやりとした感じがよく出ている。

また同時にこの作品を支えているのは、最小限の、適切なセリフ回しである。他の漫画家よりも少ないセリフでその余韻も含めて、読者に登場人物の心の動きを伝えている。行間で雰囲気を伝える。こういう軽快で、どこにでもありそうな、(まるでうちの母親が言いそうな)セリフを、読者に何ら加工せずにそのまま受け渡してしまう。そうすると読者は、「セリフ回しとかは軽快で洗練されてて読んでいて気持ちがいいんだけど、そこに込められたキャラの気持ちはなにか」に気がひかれることになる。そこに作品のぼんやりした感じが加わると、読者はとたんにわかっているようでわからない、つかみどころのない感想をもつことになる。

しかし、何もこの作品は漠然とした雰囲気だけで読まそうとしているわけではない。話の流れ、気持ちの変化はおそらくよく計算されている。主人公の気持ちの変化は話の流れにきちんと沿っている。加えて、部分部分で厳しい話の展開もしている。「ぼくは、おんなのこ」では、女性化した兄が男性化した妻を受け入れられずに家から出て行ったことを主人公に伝えるシーンがある。その後、主人公は男性化した兄嫁に向かって「髪・・・切ったんですね・・・」と言い、兄嫁の気持ちを傷つけている。よく考えてみるととても残酷な話のように思える(髪の毛をいつ切ったのか本作では不明だが、いつ切ったにしても兄嫁の気持ちを傷つけたのは間違いない)。また、伏線が張られてもいる。「花」という作品に主人公として出てくる「ユキさん」は、「放浪息子」でも重要な役割を果たすことになる。こういう仕掛けはファンにはうれしい。さらに表題「ぼくは、おんなのこ」についても、読点を入れることで主人公の決意とか迷いがはっきりと感じられるような気がする。「敷居の住人」という作品で、「敷居=大人と子供の間」を暗に指していることから言っても、「ぼくは、おんなのこ」についても計算された意味があるような気がしている。

志村作品の「漠然とした」雰囲気というのは、このような計算に裏付けられている。